美しい国は差別の国
2007年7月27日
宇佐美 保
「美しい国へ」と旗振りをする安倍晋三首相は、今回の年金問題に関して次のように発言したそうです。
(2007年6月15日のnikkansports.com)
安倍晋三首相は15日夕、都内で開かれたパーティーであいさつし、消えた年金問題をめぐる社会保険庁の対応について「親方日の丸的に、上から人を見るような気持ちがあったのは事実だ。こうした“ごみ”を一掃しなければいけない」と述べ、激しい表現で社保庁の体質を批判した。 ・・・ |
しかし、社保庁の体質を批判する前に、“法律を守っていればなんでも許される”と発言し居直って憚らない安倍内閣のゴミである閣僚を(安倍氏ご本人も)一掃すべきであると存じます。
それにしましても、安倍氏の唱える「美しい国」とはいかなる国なのでしょうか?
昨年(2006年)の11月14日にNHKテレビ番組「クローズアップ現代“愛国心”」で、小学校の先生が生徒達に「美しい国」(?)を教えている教室の風景を紹介していました。
(途中から見ましたので、詳細は不明ですみません)
先生の、 |
との問いかけに、
“今までは気が付かなかったけど美しいところに住んでいるだなあ” “自分は日本にいてよかったなあ” |
と、生徒達は答えていました。
「何故日本ばかりが美しい国なのか」と疑問に感じた子供は、
“スージーさんの国も美しい自然があるのに、 何故「日本が美しい自然があっていいなあ」というのか? 外国だって美しいのでは?” |
との疑問を先生にぶっつけていましたが、
先生は、“日本には富士山があるし、四季がないと一年中同じ花が咲いている”などとの説を繰り広げ、
授業の最後には、 殆どの子供たちが「四季がある日本は美しい」ということになりました。 |
そして、この先生は、“日本の良さに気が付いてもらい国を愛する心を育てようとした”、“日本の良さに気づいて欲しい”と思いこのような授業を行ったと、この授業を見学した他の先生たちに答えていました。
そして、
別の先生は、 日本の「箸」に関する文化から 「美しい日本」を生徒達が認識するような授業を行っていました。 |
これからは、このような授業が日本中で行われるのでしょうか?
富士山よりも、エヴェレストや、アルプスや、キリマンジャロなどを美しいと思う人も多い筈です。
しかし、(今はどうか分りませんが)20年も前の事ですが、飛行機から見る韓国の山々にはまるで木がないのに驚きました。
でも、ある人は、“それは日本軍が韓国の山々を禿山にしたのだ”、“否!韓国の人達の燃料となってしまったのだ”・・・と教えてくれましたが、真偽の程は私には分りません。
(それに、富士山だって、いつの日か噴火してその姿を変えてしまうかもしれません)
私は、寒がりですから、四季などない「常夏の国」に憧れています。
ハワイとかフロリダに住んで、好きな時に雪山に行ってスキーなどしたり出来る身分だったら嬉しいなあ〜〜〜!
それよりお金があったら、モナコに住宅を構えて優雅な生活を送りたいなあ〜〜〜!
なにしろ、モナコに住居を持ち、一定額以上の銀行預金をモナコの銀行に預けていれば、モナコの市民権が得られ、モナコでは無税ですから、お金持ちの天国です。
それに「箸」は、多くの日本文化と同様に、その源は中国ではありませんか!? |
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように書かれています。
5000年前の中国で、煮えたぎった鍋から食べ物を取り出すのに二本の木の枝を使ったのが箸の始まりと言われている。 史記によると、帝辛が象牙の箸を使用したという逸話がある。 ・・・ 中国文化が周辺地域に影響力を及ぼすと共に(周辺地域の民族が外交的に中国・漢民族から野蛮人と見られたくないこともあって)、他の国でも使われるようになっていった。 |
このように、他国の良さには目もくれずに、小学校の授業などで、日本は「美しい国」(他国よりも素晴らしい国)と叩き込まれたら、戦前同様に、日本人は、(安倍氏の目論見通りに?)他国民を蔑視する国民に戻ってしまう事でしょう。
なにしろ、私の父親達は、中国の方を「チャンコロ」、「支那人」と、ロシア人を「ロ助」、イタリア人を「イタ公」等との表現していました。
(韓国の方には「朝鮮人!」と)
昭和7年(1932年)と戦前生まれの為かは分りませんが、石原慎太郎氏は、外国人を蔑視する傾向が大であると存じます。
『紙の爆弾(2007年8月号)』には、次のように記述されています。
新井将敬──四面楚歌による自死 ・・・ 彼は在日韓国人だったが、日本国籍を取得して帰化している。もっとも優秀な学生時代や大蔵省の官僚の時には露骨な差別を受けることはなかったようだが、何でもありの政治の世界は違う。 最初の選挙で同じ選挙区の対立候補から〃帰化人〃、〃北朝鮮出身〃といった黒いシールを全ての選挙ポスターに貼られるという嫌がらせを受けたのだ。 やったのは先に都知事三選を果たした石原慎太郎であった。 石原の秘書だった男が真夜中に新井の選挙ポスターにシールを貼っているところを現行犯で取り押さえられている。 この醜悪な民族差別の選挙戦術に激怒したのが右翼の野村秋介だった。 「こらあー石原、お前はそれでも日本男児か、恥を知れ」と野村に怒鳴り込まれた石原の釈明は「あれは秘書が勝手にやったことで、ボクは何も知らなかった」というのだ。ほとんど全ての選挙ポスターに貼ったシール代だって馬鹿にならないし、本当に石原は知らなかったのか? |
この件は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見ますと次の記述を見ます。
1983年:黒シール事件によって新井将敬の選挙活動を妨害し野村秋介より抗議を受ける。 |
更には、石原氏一家のどなたかが選挙運動する際には、石原軍団(いやですね〜〜!「軍団」なんて名乗って!)ご一行が、選挙の応援をされるそうですが、その石原軍団に関しても『紙の爆弾(2006年9月号)』には次のように書かれています。
岩城滉一は、館ひろしとともにクールスというバンドから芸能界入りした。当初、岩城は館とともに石原プロに所属すると思われたが「朝鮮人嫌いの石原慎太郎が軍団入りに猛反対したから」(芸能レポーター)所属できなかったという。 |
だったら、「石原軍団」など名乗らず「差別軍団」と名乗っては如何ですか!?
こんな石原慎太郎氏のような人物が、都知事でしかもオリンピックを、その東京へ招致しようとするというのですから、安倍氏のような人物が首相を務めたりもするのでしょう。
そして、次期首相と目されている麻生太郎氏は、石原氏と全く穴の同じ狢(ムジナ)であるのですから、一体この国はどうなってしまうのでしょうか?
他人を差別して憚らない麻生太郎氏に関しては、拙文《野中広務氏への麻生氏の差別》の一部を再掲させていただきます。
そして、衆議院議員として初当選した1983年8月から20年後の、2003年9月に引退を決意されたのですが、その時の模様を『野中広務 差別と権力』(魚住昭著:講談社発行)の「エピローグ」で、次のように記述しています。 ・・・ 二〇〇三年九月二十一日、野中は最後の自民党総務会に臨んだ。議題は党三役人事の承認である。楕円形のテーブルに総裁の小泉や幹事長の山崎拓、政調会長の麻生太郎ら約三十人が座っていた。 ・・・ 立ち上がった野中は、 「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」 と断って、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生のほうに顔を向けた。 「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」 野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。・・・ |
このような石原慎太郎氏や、麻生太郎氏のように他人を差別する人物が、この国の為政者であるのですから悲しい事です。
この悲しさは為政者に留まりません。
日頃、自分が司会する番組に於いて「為政者の本音を暴く」とか、「この番組にタブーはない」と嘯(ウソブ)いているジャーナリストの田原総一朗氏は、『週刊ポスト(2007年7月6日号)』で、「日本のジャーナリズムはなぜ運動団体の糾弾を恐れるのか」と次のように息巻いています。
私は1989年に『朝まで生テレビ!』で部落差別問題を取り上げて以来、何度も特集を組んできた。そうした私から見ると、昨年の大阪や京都、奈良で起きた事件をきっかけとして、関西のメディアが突如、連日のように報道したことは非常におかしい。警察捜査に乗じて、部落解放同盟に対してこれまでの仕返しをするような感じだ。しかし、実際には、行政側が差別を利用し、利益を得ていた側面が非常に強い。 それでも東京のメディアは、ほとんど報道しなかった。結局、糾弾を受けたら煩わしいから、触れないでおこうということでしょう。 私は、05年1月に放送された『サンデープロジェクト』の内容に対して部落解放同盟から糾弾を受けるということになったが、結局、長時間話し合うことで相互が理解した。 世間ではどうも、糾弾が誇張されて伝わっているが、反省を込めて素直に語ればいいと思う。お互いの言い分を納得するまで話し合えばいいんだから。 じゃァ、メディアはなぜ糾弾を恐れるのかといえば、部落差別をしているという後ろめたさがあるから。差別を受けている側は体を張って戦っているからね。それをメディア側は体を張って受け止めるのではなく、ただ謝って逃げようとするのではいけない。日本のジャーナリズムは、保身の塊だ。 |
この田原氏の記述は、ご自身の自慢話のようにしか思えません。
「私は、・・・部落解放同盟から糾弾を受ける」の件は、私の記憶では、「ハンナン事件」の際、田原氏が“差別部落などを恐ろしがったり、タブーにしたりせずに、取材したのは偉い”と取材した方を褒めていた件だと存じます。
(他にも、“下手したら殺されていたかもしれないのに”といった類の発言もあったと記憶しています)
この件から、田原氏は、「差別部落=(一般的には)恐ろしい所」(田原氏本人は、「差別部落」=(本人無理に強がって)怖くない所))との捩れた差別意識を心の中に飼っている事が推測されます。
ですから、田原氏は、「日本のジャーナリズムは、保身の塊だ」と非難する前に、又、「差別部落の不正は、糾弾を恐れずに報道せよ!」と唱える前に、どんなに難しくても「差別を無くす為に、日本のジャーナリズムは、働くべきだ!」と主張すべきなのだと存じます。
そして、田原氏自ら(真っ先に)、氏の心の中にある差別意識を一掃すべきです。 (とても難しい事ですが) せめて、「差別部落の糾弾」を自慢げに話さない事です。 |
『週刊ポスト(2007年6月22日号)』では、悲しい差別の実例が数多く紹介されています。
一部を引用させて頂きます。
結婚差別の悲劇は本人のみならず、家族全員をも不幸のどん底に突き落とす。 兵庫県内に住むF江さんが結婚を考えた相手は高校の同級生。隣町の同和地区にある皮革業者の長男で、その職業を継いでいた。 F江さんが結婚話を切り出すと、案の定、両親は反対した。だが最も強烈に反対したのは同じ町内に住む親戚たちだった。「親戚づきあいができなくなる」「墓地も替わってもらう」と口々に恐喝のような言葉を吐いた。 だがF江さんは「結婚できないなら死ぬ」と泣き叫んだ。その姿を見かねた兄だけが「あとのことは俺に任せたらいい」と妹を擁護し、両親を説得したのである。関係者がいう。 「結婚式と披露宴は新郎の地元で行なわれたが、F江さんの親族は誰も出席しなかった。そればかりか、以来、F江さんの家族と話す近所の人もいなくなり、一家は親戚の法事や結婚式にも呼ばれなくなりました」 悲劇はそれだけで済まなかった。結婚を応援した兄には交際中の女性がいたが、彼女の家族の反対で破談になってしまったのだ。 「父親は寝込み、心労がたたって母親も他界。その葬儀にも参列者はほとんどなかった」(前出・関係者) |
差別の悲劇は次の世代にも及ぶ。兵庫県に住むN美さんは、友人の紹介で知り合った恋人が奈良県の被差別部落出身だった。やがて両親が調べて大反対。N美さんを説得したが、彼女は納得しなかった。 「結局、N美は彼と結婚したのですが、両親に『絶対に子供は作らない。それだけは守る』と置き手紙をして出ていった。現在も実家との行き来はありません」(N美さんの友人) ・・・ |
このような差別はどのようにして無くす事が出来るのでしょうか?
先の『週刊ポスト(2007年7月6日号)』には田原氏の他に12名ほどの方々のご意見が掲載されていますが、そのどの方のご意見にも大賛成というわけには行きませんでした。
その一部を掲げさせていただきます。
太田誠一(総務庁元長官 自民党衆議院議員) 憲法14条「法の下の平等」だけでは差別解消の実効性に欠ける 98〜99年、私が総務庁長官を務めていた時代に立案責任者として関わったのが「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」でした。 これにより人権教育・啓発に関する国、地方公共団体及び国民の責務が明らかにされ、全国の各小学校区に人権擁護委員などの責任者が置かれて地域コミュニティによる集会などの活動が活発に行なわれるようになったのです。 憲法14条には「すべて国民は、法の下に平等であって……」とあるが、それだけでは実効性に欠ける。社会的地位または門地(家柄)による差別は禁じられていたにもかかわらず、具体化する法律がなかったのです。 また、さらに人権救済制度を新設するという人権擁護法案も自民党内で推進している。 私としては、この問題は普遍的に、ユニバーサルな価値観で判断すべき問題だと思っています。部落差別の解決は政党を超えていかなければならないのです。 |
この方は、「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」との問題発言をした方ですから、この方の見解をまともにコメントする気も起こりませんが、それにしても、差別問題が法律で解決すると考えているのには呆れます。
奥村基治(大阪市教育委員会 指導部主席指導主事) 「人権教育」の年問計画などは各学校の裁量に任きれている 現在も社会には、部落差別問題に限らず、障害者や女性の差別、在日外国人の問題など、様々な人権教育の課題がある。大阪市が出している学校教育指針で人権教育をしなければならないと定めているが、年間計画や週何時間行なうかといった点については各学校の裁量に任されている。 文科省の取りまとめでも「人権教育は学校教育において、各教科、道徳、特別活動、総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じ、教育活動全体を通じて推進されるものである」とされており、学校では、様々な時間を使って行なわれているのが実態だと思う。 『週刊ポスト』(6月22日号)で中学時代の先生との結婚を反対されて自殺した広島の女子高生の事件を報じていたが、人権教育で、差別はいけないのだということをきちんと学習しておけば、このような事件は起こらなかったんじゃないかと私は考える。他人と自分の人権を大切にすることを教えるのが人権教育。当然、命も大切にしないといけないわけだから。 |
太田誠一氏は法律で解決し、この奥村基治氏は「教育(人権教育)」で解決するとお考えのようです。
では、いじめ問題も、お二方の論の通りに「法律」「教育」で解決するのでしょうか?!
井沢元彦(作家) 「穢れ」を嫌う宗教的感情が日本人の差別意識を生んだ 部落差別の起源はどこか?部落解放同盟を中心とした同和関係の団体は、江戸時代、徳川幕府が民衆を分断支配するため、こういう身分を作ったのだという。これを政治起源説というのだが、私はもう少し根が深いと思っています。 これは私が『逆説の日本史』を書いている理由でもあるのだが、日本人には日本人独特の考え方があり、その中に部落差別を助長するようなものがある。それが部落差別の原因だと思う。 これが「穢れ」で、古代の日本人は、この「穢れ」を非常に忌み嫌い、あらゆる罪の根源であると考えていた。 つまり日本には「穢れ」を嫌うという形の宗教的感情がある。例えば最も典型的なのが、牛や馬を殺す人に対する差別。牛や馬を殺すと、その死の「穢れ」に触れるというわけだ。日本人は革製品は利用するが、それを殺すのは手を汚すことになるという意識がある。 それは特定の弱い立場の人にやらせて、その人を差別する。例えば川の向こう側に住めとか、そこから出てくるなとか、同じ釜の飯は食わない、と。 つまり、動物を殺す「穢れ」が罪になるというのは宗教の問題で、もっといえば迷信です。そういう迷信には何の根拠もないのだということを小さい頃からの教育で徹底することが、回り道のようではあるが、差別を解消するために非常に大切だと思う。 |
この方は、「穢れ」が差別問題の根源と認識し、且つ、この文面からでは、その「穢れ」の存在を容認しているようにも思えます。
なにしろ、「動物を殺す「穢れ」が罪になるというのは宗教の問題で、もっといえば迷信です。」と書かれているのですから!
(不思議ですね、多分「動物を殺す=穢れ」の意味で「穢れ」という言葉を使用していると解釈します)
しかし、私は、「日本人には日本人独特の考え方があり」と日本人を差別問題で特殊と考えるのは反対です。
そして、又、「迷信には何の根拠もない」と教育で教えようが、その効果は期待できないと存じます。
多くの野球選手は、「縁起を担ぎます」(縁起だって迷信でしょう?)
松坂投手は、ベンチから、グランドに引かれた「白線」を飛び越えてマウンドに向かって行きます。
私は、「夜、爪をきると親の死に目に会えない」とは迷信と思いつつ、両親が生存中は「夜、爪を切る事は一度もありませんでした」、それに、霊柩車が通りかかると両手の親指を他の指の中に隠していました。
島田裕巳(宗教学者) 「身分制度」「死者供養」「前世」を取り込んだ仏教思想の〃罪〃 部落差別が如実に現われるのが戒名だ。戒名は家の格を示すシンボルで、男性は位の高い順に院号居士、居士、信士、禅定門。女性は院号大姉、大姉、信女、禅定尼と4ランクに分かれている。だが被差別部落の人たちは、それ以外の差別戒名をつけられていた。 墓石に蓄(畜生の意)、賎、卑、革(革を扱う)、卜(下僕)、旃陀羅(インドの被差別民の意)という文字を刻み、一目で部落出身者であるとわかるようにした。最近、80年に長野県で建てられた墓石にも差別戒名が記された 元々は死者を供養するのは仏教の目的ではなく、生きている人を成仏させるのが役割で、死者の世界と仏教は関係がない。例えば奈良県の古寺には墓がなく檀家もいない。僧が亡くなると、他の宗派に依頼して葬儀を出す。それほど死とは距離を置いていた。それが江戸時代の身分制度とからんで死者供養とが結びつき、前世という観念を取り込み、前世で悪業を犯した人間が今世で差別を受けるのだという観念が生まれ、差別を正当化した。 神道も死や出産、生理の血を汚れているとして差別を助長した。 日本では差別を徹底して否定する宗教は生まれない傾向にある。現在も仏教界は差別戒名の反省などから、各宗派の集まりで差別問題を取り上げ、研修会も行なっているが、教えるレベルにまで踏み込んで差別意識を変えようとまでして来なかった。これからは日本の宗教も国際化の中で差別意識をなくすことに取り組む必要がある。 |
私は「差別戒名」の存在は知りませんでした。
「差別戒名」をなくすとともに、「戒名」自体も廃止して頂きたいものです。
(勿論、私は、戒名など欲しくありません)
森達也(映画監督) 「差別する側」の意識を変えることができるテレビ番組企画 僕が『放送禁止歌』を題材にしたテレビ番組を作った時、企画会議で、最初は否定されました。「関東では部落差別は消えかけている。今さらそんなものを放送したら、差別の再生産になる」と。 僕は、それは違うと直観的に思った。忘れられかけているからそのままにしょうという発想は、そもそもメディアがすべきではない。 それがネガティブなものであればあるほど、正面から凝視して、何がどうおかしかったのかを考えないと乗り越えられない。 特措法は期限が切れたけれど、差別はまだなくなっていません。哀しいことだけれど、人は誰かを差別したい、上になりたいとの願望があるのでしょう。特措法の果たした役割はそれなりに大きい。でも行政は意識を変えることはできない。 だから、これからは行政レベルではなくて、人の意識に大きな影響を与えるメディアが重要です。 例えば、NHKの朝の連ドラの主人公を被差別部落出身者に設定するとか、大河ドラマの原作に白土三平の名作『カムイ伝』を起用するとか。木村拓哉主演のドラマで彼を被差別地域に住む青年役にしたっていい。 決して悪ふざけではなく、そういった取り組みが人の意識を間違いなく変えるんです。 |
私はこの森達也氏が指摘された
「人は誰かを差別したい、上になりたいとの願望がある」 |
が、差別の根源と感じます。
更に又、「自分も差別される側に行きたくない」の思いもあります。
(この思いから、親、親族が結婚を反対します)
例えば、この見解の森達也氏が、又、いつも偉そうに言っている田原氏が、差別されている女性と結婚していると、お二人の見解は、世間からは(今とは)別な受け取られ方をされるかもしれません。
島崎藤村の長編小説『破戒』(はかい)の被差別部落に生まれた 主人公・瀬川丑松への、彼の父親の
|
私の知人は、或る時、親しくしていた方から、その方の出身を知らされます。
日頃、彼は、差別意識は持った事がないと自負されていたのですが、その方の出身を知らされて以来、(その方をその事で差別する事は絶対になく、却って尊敬しているのですが)その方を思うたびに、頭の隅に、その事が浮かび上がってくると悩んでいます。
この事実(又、『破戒』)を考えても、(たとえ、森達也氏の提案のように、テレビや、映画の力を活用しても)一度身に付いてしまった「差別意識」は、その後、取り除こうとしてもなかなか難しいのだと存じます。
(悲しい事には 「他人の不幸は蜜の味」の想いが 私達の心の奥に巣くっているのです) |
ところが、安倍氏は、更に、差別を拡大増大しようとするのです。
「美しい国へ」の旗印の下「日本は良い国、素晴らしい国」を強引に子供達に叩き込もうとしています。
自分達の国が良い国であるとの意識は、「選民意識」にもつながり、戦前同様に、他国民を蔑視する風潮が日本国中に蔓延する危険性が生じてきます。
そして、この「選民意識」は、他の「差別意識」の温床となってしまうでしょう。
朝日新聞(2007年7月26日)、には、ピーター・バラカン氏(ブロードキャスター)の
“カリキュラムで「愛国心」を教えるのは共産圏ぐらいしかない” |
との言葉が掲載されていました。
(北朝鮮のテレビニュース(声高に日本を非難するアナウンサー)を見るたびに、“戦前の日本も、このような状態だったのだ!”と思わずにいられません)
ところが、欧州連合(EU)の理念は如何でしょうか?
駐日欧州委員会代表部のホームページを訪ねますと次のように記されています。
・・・EUは市民の大多数が支持するひとつの人道主義的社会モデルを表象している、といえるでしょう。欧州人は、人権への信念、社会的連帯、自由企業体制、経済成長の成果の公正な分配、良好に保たれた環境のもとに生きる権利、文化・言語・宗教における多様性の尊重、伝統と進歩の調和など、先祖から受け継いだ豊かな価値観を大事にしているのです。 |
ここに記された「多様性の尊重」こそが、個人個人の付き合いに於いても、国と国との付き合いに於いても、私達がこの「かけがえない地球上」で生存し続けるに最も大切な事ではありませんか?
そこで、最後にお釈迦様の教え(法華経 薬草喩品 第五)を掲げさせて頂きます。
(『大乗仏典 (中村元編:筑摩書房発行)』より)
……たとえは、三千大千世界の山や、川や、谷や、土地に生ずる草や、木や、叢や、林や、もろもろの薬草は、さまざまな種類があり、名前も形もおのおの異なっているのであるが、これらの上に密雲があまねく布き、あまねく三千大千世界を覆い、一時に平等に降り注ぎ、その水気はあまねく草や、木や、叢や、林や、もろもろの薬草の小さい根、小さい茎、小さい枝、小さい葉や、中ほどの根、中ほどの茎、中ほどの枝や、大きい根、大きい茎、大きい枝、大きい葉をうるおすのである。もろもろの樹の大小があるのは、樹の上中下に随っておのおの受けるところが違っていて、同じ一つの雲から降った雨ではあっても、それぞれの本性に応じて生長し、花をつけ、実をみのらせるからである。同一の大地から生じ、同ーの雨にうるおされるのであっても、しかも、もろもろの草木にはおのおの差別があるのだ。…… |
(勿論、ここで記されている「差別」は、いわゆる「差別問題の差別」ではなく「多様性の差別」である事は言うまでもないことでしょう)
そして、このような大事な多様性を容認できない安倍氏たちには早々に政治の舞台から去って頂きたいものです。
本文も長くなりましたのでは、次の拙文《差別、格差社会を招く安倍晋三氏》に引き継ぎたく存じます。
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